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2012年 11月 29日

独立歩兵第92大隊の話

昨日は午前中にさつさと仕事を終へて、昼から元軍人の城さんに戦争のお話を聞きました。

城さんは、齊々黌から九州大学に進み、入営(入隊)後は予備士官として中支派遣独立歩兵第92大隊所属の小隊長として45名の兵を率ゐて戦ゐました。

いろゝゝと興味深ひ話を伺ふことができました。とくに興味深かつたのは支那の戦ひは「日本軍」VS「国民党軍、共産党軍」だと思つてゐたのですが、実際には国民党軍と日本軍には信頼関係みたなものがあって、表面的には戦いつゝも協力してゐたといふ事です。
例えば、終戦後に日本軍は武装解除するのですが、その日本兵を見て共産党軍が勢いづいて国民党軍への攻撃を激しくするようになりました。そこで国民党軍は押収していた武器を再び日本軍に渡して、共産党軍を牽制することもあつたさうです。

城さんの直属の上官だつた山脇といふ中隊長は東大出身で、人間的にも軍人としても優秀だつたさうです。
あるとき、山脇中隊長は僅か20人の兵を率ゐて陣地を守つてゐました。そこへ1000人もの共産党軍が攻めてきて戦闘になりました。弾薬が限られているため、一発一発大切に使い、丸1日戦ひました。
共産党軍が撤退し戦闘は終はり、なんと山脇中隊長の部隊にはたった一人の戦死者もでなかつたさうです。

こんな優秀な人材を失つてはいけないと考へた陸軍は山脇中隊長に安全な「軍司令部への異動」を要請します。
しかし、山脇中隊長は「私は兵たちと共に中隊にゐたい」と断固要請を断つたのでした。
山脇中隊長はその後の戦闘で戦死しました。

話を伺つた城さんは敵の迫撃砲の至近弾を受けて重傷を負ひますが、奇跡的に命をつなぎ止め野戦病院に運ばれて九死に一生を得ました。
もし、あの時負傷していなければ私は後々の戦闘で死んでいただらうと仰つてゐました。

城さんが所属してゐた独立歩兵第92大隊の1350名は終戦までに約1100名が戦死しました。


城さんは、
「戦争はやつてはいけない。」
「軍備はしつかり持つべきだ。」
「憲法9条に掲げられてゐる戦力の不保持は飛躍しすぎた考へ方だ。」

と仰つてゐました。


近頃、保守系議員が好戦的な発言をしたり、保守系市民がその発言を喜ぶといふ姿が散見されますが、平和ボケにどっぷり浸かった我々に耐へうるほど戦争は生易しいものではないと痛感してをります。
戦史を学び、体験談を聞けば聞くほどさう思ひます。


他国に日本の平和を委ねるやうな弱々しい平和主義などなんの役にも立ちません。
日本が自らの手で、日本を守るといふ強い意志と実力とがなければ日本人が心から願ふ本当の平和は訪れないと確信してをります。
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by gendousha | 2012-11-29 12:03
2012年 11月 28日

今日の出来事。

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本日は早朝から阿蘇に行つてきました。
雲海を見たかつたのですが、日の出前に消滅してしまひました。
それでも阿蘇の神々しき美しさにはいつも感動させられます。

日の出を拝んでから、急いで帰宅し、仕事へ。
仕事さつさと終はらせて、午後は独立歩兵第92大隊の小隊長をして居られた元陸軍中尉の方へ取材に行き、戦史を聞かせて頂きました。

大東亜戦争の歴史は今のうちに記録として残しておかねばならないと思ひ、機会がある度におじいちゃん達から話を伺つて記録に残してゐます。

現在、保守派と呼ばれる政治家が好戦的な発言をしたり、それを聞いて興奮する保守系市民が多く散見されますが、本当に戦争になれば平和ボケにどっぷり浸かつた我々が耐えうるほど戦争は生易しいものではないと思ひます。

私は戦争の話を聞けば聞くほど、軍事力の必要性と、平和の大切さを痛感いたします。

今日の取材については後日詳細を載せます。


その後、中川大佐のお墓へ整備に行き、そのまま18時から皇学館大学教授の新田均先生の講演会を拝聴しました。大変勉強になりました。


目が回るほど忙しい一日だつた。
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by gendousha | 2012-11-28 22:57 | お知らせ・報告
2012年 11月 24日

中川大佐命日祭

本日は郷土の偉人、中川州男大佐の命日でした。
本日は所用により時間が無かつたため、勝手ながら昨日大佐の墓前にて命日祭を行ひました。
命日祭が終わつた後、先輩や友人達の協力のおかげで無事に大佐の説明碑を設置することができました。

今後は、中川大佐顕彰会を発足させて、没後七十年にあたる二年後までに墓石の基礎等の整備を行ひ、ご遺族、関係者、並びに崇敬者の方々に呼びかけて盛大に命日祭を挙行したいと思つてをります。


説明碑の設置により、少しは大佐のお墓の場所がわかりやすくなつたとは思ひますが、それでも見つけにくい場所にあるのは変わらないので、もしお参りしたい方で場所をご存知ない方がいらつしやいましたら、私まで連絡下さい。ご説明致します。
(私は中川大佐の親戚ではありません。崇敬者の一人です。)

鈴木田しゅんご
電話090ー8399ー1984

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by gendousha | 2012-11-24 19:32
2012年 11月 16日

中川大佐のお墓

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中川大佐のお墓の場所についてのお問ひ合はせが多いので簡単な地図を掲載します。
(熊本市室園の朝日野総合病院うら、共同墓地)

また、今月24日の中川大佐の命日までに中川大佐の碑を立て、大佐のお墓を発見しやすいやうにします。
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by gendousha | 2012-11-16 06:47 | お知らせ・報告
2012年 11月 08日

郷土の偉人。尊皇の僧「佐田介石」

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本日は朝一で仕事を終わらせ、急いで小島の正泉寺に向かい熊本県立大学名誉教授の梅林先生による「佐田介石」につひての勉強会に参加。
地元の人をはじめ、80名程の参加者が集まつてゐた。

佐田介石は幕末に熊本県八代の浄立寺の長男として生まれ、18歳で京へ上り西本願寺に学び仏教への信仰深くした。
その頃、西洋から地動説が輸入されたが、仏教の教へを覆す学説だつたため佐田は危機感を覚え、この地動説に対抗するべく仏教天文学を学び、独自の理論を確立し、地動説排撃運動を展開した。この理論に基づいて視実等象儀といふ天文儀を作るなどして、その理論の普及に努めた。

介石は僧といふ立場にとゞまらず、尊皇の士としても活躍し、桂小五郎をはじめ幕末の志士や、幕府の要人ともパイプを持ち、僧といふ立場から国内の安定を目指すなどして、外夷の圧力から日本を守るために尽力した。

介石の歌に
「国のため、法のためとて身のかぎり、尽くして果てん倒れ伏すまで」
といふのがあるが、この歌のとおり、介石は明治維新後も西洋文化を厳しく批判し、日本の伝統文化を守るために全国を遊説をして回つたが、新潟県でついに病に倒れ、64歳で永眠した。


また、介石は僧でありながら神道原理主義ともいふべき神風連の志士達とも交流があつた。
信仰は違へど、肥後もっこすといふ事に関しては非常に相通ずるものがあつたのだらう。
神風連の志士たちは、洋服や、紙幣、電線の下を通ることなどを穢らわしいとして忌み嫌つたが、介石も同じやうに西洋文化を嫌ひ、化石燃料を使わない伝統的経済論である「栽培経済論」や「ランプ亡国論」を著すなどして日本の伝統文化の大切さを訴へ続けた。
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by gendousha | 2012-11-08 21:22 | 日本主義